『南方録』に《掛物ほど第一の道具はなし》とあります。また「一会は掛物から」と言われるように 道具の中で中心をなすのは 掛物です。
掛物は 亭主の気持ちを表すもので、また 掛物を書いた方を 席中にお招きして 共にお茶を頂戴しょうとの意もあります。したがって誰の書であるかが重要です。
書は人なり、尊敬される高僧、身分の高い天皇や公卿、歴代の家元や侘茶人などの書を掛けて その方を偲びます。
千利休筆 天正十五年正月三日付
利休には 鳴海という祐筆がいたことが知られていて 利休真筆は極めて少なく、その中の一点がこれです。
天正十五年正月三日 秀吉は 大阪城の大広間に 三台の台子を据えて 利休、津田宗及、天王寺屋宗無に茶を点てさせ 大名や 京・堺の豪商を客とした茶会をします。その時の 茶頭であった利休の覚です。
「天正一五年正月三日 於 御成之間ニ 御茶湯かさり 床 鐘ノ絵 山水青楓 雁〃 ・・・・」(この時の 道具組、誰が点前をしたかなども書かれている。 有名な 牧谿筆「煙寺晩鐘」「平沙落雁」や 大名物「唐物 新田肩衝茶入」などの名も見えます。秀吉が 紅梅を長そろりの古銅花入に入れ 書院棚に飾ったことも記せられていて 面白い内容です。 )
千宗旦 十一月十七日付消息
千宗旦筆 十一月十七日付消息
宗旦は利休の孫、利休自害の時 宗旦14歳、大徳寺の春屋宗園に喝食として預けられる。その後許され 千家を再興する。そして利休の 侘茶をさらにおし進めて完成させた。
昭和13年 表千家不審庵から宗旦の 子息に出した消息 二百数十点発見がされる。内向きの手紙なので 愚痴や本音をそのまま書いて 今まで知られていなかった宗旦像があらわになった。
この消息もそのうちの一通。表千家初代の 江岑宗左に宛てたもの。
「御影堂文阿ミ下間一書申候…(中略)……一 此茶片桐州より給候極半斤給候内一袋参候 一 柳生へ十一日ニ下ニ極候処少該気 …(中略)… 一 玄室与風下可申候其方様子極候釈……」
(御影堂の文阿弥がそちら(和歌山)へ下るので手紙を書きました……一、このお茶は片桐石州から貰ったものです 極上の半斤を頂いたのでそのうちの一袋をあげます 一、柳生宗矩(但馬守)の方へ十一日下ることに決めていたところ、少し風邪気味で…… 一、玄室(のちの宗室仙叟)が、ひょっとそちらに行くようなことを言っております、様子を聞いてください…… )
医者の見習いに玄琢に預かっていた仙叟(裏千家初代)が 宗旦のもとに帰ってきて お茶をしたいと 兄の 江岑宗左に許しを請いに紀州徳川家まで行きます、宜しく、と頼んだ手紙。
裏千家にとり大変興味のある内容。宗旦68歳のもの。
玄々斎 正月廿八日付消息
玄々斎宗室 正月廿八日付消息
裏千家十一世玄々斎は 三河国奥殿領主 大給松平家乗友の 五男として生まれ、10歳で 十代認得斎の養子に入る。利休250年忌を営み、利休祖堂、咄々斎、抛筌斎、兜門を 増改築するなど 現在の裏千家の骨格を築き、中興の祖と言われる。明治5年京都博覧会に際し 立礼点を考案するなど 点前の創作も多い。
この消息は お年賀で肴料を頂いた 礼状。
「御慶札忝拝見追日春色相催候御揃愈御安泰二被成御重歳目出度奉存候……」(お手紙 嬉しく拝見しました。 日を追って春の色が濃くなってきました。皆さまお揃いで ご安泰に年を越されたことめでたく存じます。ついでながら 私達も無事年を越せました。 恐れ多いことですがご安心ください。……)
実に丁寧で 心のこもった礼状です。
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